23話は、
どうやら作ってる方はノリノリらしく、
↓こういう画と、状況設定が欲しいだけに、前22話で、ユリーシャがニセモノと判明しても、
「大した問題ではない」と言い放ったデスラー。どう考えても大問題だろ!
感動巨編のつもりっぽいが、
そこまで持って行く展開の強引さとムリクリぶりに、
唐突な「自分ができることをやる」の、古代と雪の交互ショットのあたりで失笑。
怒濤のご都合主義、偶然の乱れ打ちの末に、雪が救出されるクライマックスで、
バカらしくて、激しく脱力。
にしても沖田艦長は、初到達のガミラスなのに「デスラー総統府」とか「バレラス」なんて、なんで固有名詞と位置を熟知してるんだ?
(どうせメルダとかのもたらした情報ってことになるんだろうけど)
初めて見るモビルスーツなのに、「ゲルググ」とか「ジオング」と見分けられるみたいなもんだよ。
とか書くと、「ここで説明されてますよ」と、まるで疑問に感じたこっちが悪いみたいなツッコミを入れてくる、幼稚で見当違いな、ごく一部の残念なカキコミが後を絶たない。
そしてそのことごとくが、こっちの説明を受け付けず、最初の主張をくりかえすだけっていう時間のムダを、他の記事でも、もう何度もくりかえしてきた。
あいにくそれほどヒマでもないんで、今後その手の、社会性の欠落した異常者のコメントは掲載されませんので悪しからず。
23話の感想終わり。
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最終回(26話)に寄せて書くことは、かなり前から決まっているので、総評に割けるのは、残るところ、今回と次回と、次々回の3回だけとなる。
そこで今回は、「言動の不一致」と「責任と自覚」について。
次回は「適性」について
次々回は「戦略(プロモーション)」について述べたい。
「2199」総監督の、「言ってることと、やってることの食い違い」は、それこそ至る所に見て取れる。
「2199」が公式発表されたとき、
総監督は、「伝えていかねば」
(「自分が今ここにあるのは、37年前のこの作品との出会いがあったから。だから避けるわけにはいかない、伝えていかねばならない」)
と、「宇宙戦艦ヤマト」という伝統あるタイトル、作品を継承することの大切さを訴えていた。
ところが、
私にはその「継承の精神」が、「2199」のどこからも感じられない。
勝手に総監督好みに大幅に改変しちゃって、オリジナル(原作=TV第1シリーズ)の要素がほとんど残らなかったら、原点に立ち返っての継承のしようなんて、なくなっちゃうじゃないか。
それとも、オリジナルに継承の価値があったように、
「2199」にもあって、何十年後かに、誰か別の人が、「2199」のリメイクをするとでも考えてるんだろうか。
いや、最近は、総監督の継承の精神とは、
自分が行った改変のその先は、自分以外には手がけられないんだから、
これからはずっと、オレが「2201」とか「22XX」とか、ひたすらやっていく、という意味の、あくまでも短期的な視点での継承なんだろうと、遅まきながら気がついた。
人はそれを「継承」(inherit)とは呼ばず、「乗っ取り」(takeover)と呼ぶ。
自分のオリジナル過去作に不満があって、自らリメイクするなら、好き勝手に変えたって誰も文句を言わないが、
(ジョージ・ルーカスのSW「エピソード1~3」がこれにあたるが、みんな文句を言った。ただし彼には、好き勝手にやる権利だけはあった)
かりにも伝統ある作品の、成功の端緒たる第1作を、「よそさまからお預かり」しておいて、自分好みに勝手に作り替え、良くなるならまだしも、作品の根幹をことごとく失ってしまいながら、継承もへったくれもないもんだ。
まあ、冷静になって読み返せば、彼は「継承」なんて一言も言っておらず、
「誰かが引き継がなければ」
としか言っておらず、その「誰か」は、自分でしかなかったんだろう。
ビッグタイトルのリメイクを託された「責任」と、
その意味するところへの「自覚」があれば、絶対にこんな、独善的な作品にはなってない。
「2199」とは総じて、みんなのものだった「宇宙戦艦ヤマト」を、総監督ただ一人だけのものにする私物化の作業だったといえる。
「換骨奪胎(※かんこつだったい=先人の詩や文章などの着想・形式などを借用し、新味を加えて独自の作品にすること)」という言葉の意味を、これほどはき違えた作品を、不勉強にして、私は他に知らない。
もうこうなったら、ヤマトのご冥福をお祈りするしかないね。
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23話「たった一人の戦争」に寄せて「宇宙戦艦ヤマト2199」
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