『ジョーカー』BESTIA
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2019/10/31 グランドシネマサンシャイン スクリーン6 G-15
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グランドシネマ池袋で、
IMAX作品以外を鑑賞するのは初めて。
BESTIAとしゃれこんでみたが、
(+200円)
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通常上映を未見なため、
違いはわからないが、
IMAX上映とは画面サイズと縦横比以外は変わらない印象。
うんと以前に、
- 大画面で見るまでもない
- IMAXで観て良かった
——と意見が拮抗していたが、
どちらにも一理あると感じる二度目の鑑賞だった。
IMAXは前寄りの席での鑑賞でもあり、
圧倒的な没入感、
映画世界へののめり込み度が尋常ではなく、
初めて接するドラマの驚愕の内容にもドップリ浸ったが、
2度目の鑑賞は、
全体像を視野に入れる引きの視点で、
それだけに新たにわかる事も多かった。
アーサーがトーマス・ウェインへの面会を請うために乗り合わせた電車の車中。
彼の読む新聞の一面には「私刑人」(vigilante=自警団)の道化師
裏面にはトーマス・ウェインの記事と、
父子が表裏一体になっている皮肉や、
ヴィジランティ=私刑人=自警団の原形は、
本作においてはバットマンではなくジョーカーだったことなど、
実に含蓄にあふれる。
とにかくていねいな作りの映画で、
隙やツッコミどころのない完璧な出来。
1回の鑑賞では完全理解はできずとも、
2回観れば誤解なく理解できる明確な出来で、
- 脚本、構成はこの順序で進行しなければならず
- 演技者は、これ以上ない再考の演技を披露し、
- 音楽も他では代用が利かない決定版
- 撮影もこの構図、この照明、
——と、全ての要素が最高峰で揃いきった奇跡の映画である。
「鑑賞は気が滅入るから、鑑賞する側に元気がないとダメ」
と言う声も聞き、再見をためらっていた理由にそれもあったが、
恥ずかしながら2回目にしてようやく把握した、
『ジョーカー』の内容の充実ぶりや完璧ぶりに感嘆し、
落ち込むどころではなかった。
なのでこれから、具体的な映画の内容を事細かに説明しますが、
当然ネタバレなので、
鑑賞後にお読み下さい。
- 幻想が時折織り交ぜられるが、その第一弾は、アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)が、母ペニー・フレックとテレビのマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)ショーを視聴中に起きる。客席にいたアーサーが注目され、ステージ上で聴衆に披露されるところ。父の存在を知らぬアーサーは、理想の父親像をこの司会者に投影している。
- これが幻想なのは、後で別件でテレビ出演の決まったアーサーが、楽屋でフランクリンに「初対面」と断っているのでわかる。
- アパートの黒人女性の部屋に押し入る場面も幻想。これは人のぬくもりに飢えて、後にこの部屋に侵入したアーサーに対する隣人の反応でわかる。
- ではなぜ、「事実と幻覚の区別がつきづらい=劇中の描写は全て作り話」と受け取られかねない危険まで冒して、時折アーサー=ジョーカーの幻想を差し挟んだのかというと、映画のクライマックス、ジョーカーの誕生までが、アーサーの思い描いた理想の姿で、現実ではないため。
- このジョーカー誕生の場面がないと、そこまでドラマを綴った意味もないし、かといって個人的な復讐願望を正当化してかなえてやれば、『ダークナイト』(2008)が引き起こしたジョーカー模倣犯を心理的に焚きつけてしまう。
- そこでこの部分はアーサーの幻想で片付けたわけだが、劇中でこの場面だけが唯一の幻想場面では唐突で観客に理解不可能なため、事前にチラチラと、同じ手法を織り交ぜているのだ。
というわけで、映画の最大の見せ場が実は現実ではないという、
すさまじい型破りを決行した本作だが、
それが突出して調子っぱずれにならないように、
徹底して観客に寄り添う配慮が徹底している。
- 楽器店の閉店で、市民が日常生活にてまどい、芸術にいそしむ余裕を欠いている実情が示される。
- 市民の娯楽がテレビ視聴、貧民ほどテレビ視聴の時間が長い。
- ウェイン財団のエリート社員が、通勤にクルマを使わず、治安の悪い電車に乗り込む
- ブラック経営側は社員の労災に無頓着で、業務上で発生したトラブルは社員のせいにしがち
- 芸人事務所を退社したアーサーは、タイムカード管理を皮肉り、100円ショップでおなじみ、大量に荷物を詰められる、チェック柄のナイロンバッグで引き払う
- 芸人のネタ帳って、幼稚でつたない筆致で殴り書きされていることが多い
- テレビ出演が決まると、呼んだ番組の意図など組まず、自己主張の場にはき違える勘違いが多い。
————等々、アメリカではなく、日本の大衆が体験している現状までリサーチしたのかと思われるほどの描写の数々に驚いた。
- アーサーの犯行は必ずピエロのメイクで行われるが、母ペニーの殺害だけは個人的怨恨なのでジョーカーの犯行ではなく、アーサーの素顔で行われる。
- そのため犯行後は高揚感で踊り出すのがジョーカー。自己憐憫と贖罪で冷蔵庫にこもって自殺をはかるのがアーサー。
等々、とにかく考え抜かれていて、
しかも演者のセリフが、
絶対にその時その場で語られなければならない最小限がズバリと語られている。
ジョーカーの最後のテレビでの主張は、
「誰もが自分の立場からしか語らない」
「自分思い通りにできるのは富裕層か権力者」
を、
「善悪を主観で語る」
に集約している。
たとえばですよ、
映画『ジョーカー』について語るとすれば、
まずは何より、今回のブログに記した類いをしたためるべきなのに、
ネタバレ禁止が原則だからか見あたらず、
いや、映画パンフには書かれてるかも知れませんけど、
私はパンフを買わないままで、もう何年も過ごしている。
それと『タクシー・ドライバー』
『キング・オブ・コメディ』(未見)鑑賞が必須というのも、
これだけ映画を観てても見逃した自分は、巡り合わせの問題なので、わざわざ観ようとは思わなかった。
そうそう、前回の記事へのコメントで、
本記事への感想や意見、コメント抜きで、
誤情報の指摘だけって、そろそろウンザリ、ゲンナリなんですが。
とまあ、私も主観で語ってみましたよ、ジョーカー!
ちなみに1989年の「バットマン」公開前の新聞に掲載されたティーザー広告では、
バットマンマークの左下に「12月2日」と記されてました(苦笑)。