書評「ホビージャパンヴィンテージ VOL.9」
「ホビージャパンヴィンテージ」については、
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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.1
↑2018/3/28発売
ホビージャパン ヴィンテージ Vol.2
↑2019/09/30発売
ホビージャパン ヴィンテージ Vol.3
↑2020/04/02発売
ホビージャパン ヴィンテージ Vol.4
↑2020/09/05発売
ホビージャパン ヴィンテージ Vol.5
↑2021/04/02発売
ホビージャパン ヴィンテージ Vol.6
↑2021/08/30発売
ホビージャパン ヴィンテージ Vol.7

ガンダムが世間に注目された当初から、
広く認知されていたらしい。
また、このことを私に教えて下さった、
マーミットの赤松和光氏にいただいた訂正情報は以下のとおり。
正確には、
会議が行われたのは
三郷の東京工場の会議室。

現在の跡地は、別会社の配送センター。
名前にガンを使うことだけは事前に決まっていた。
ガンナントカにしなくてはならない。
うーん、ガンナントカ、
うーん、ガンナントカとかと、一日中みんなで唸っていて、
ある人がだじゃれで
「うーんガンダム 」と言ったら それに決まってしまったという流れ。
でもってここからが、
この記事の本題で、
なんでガンダムのスポンサーはクローバーだったのに、
タカラが暗躍していたのか。
実は、「ガンダム」が(日本)サンライズ作品である以上、
タカラとの関係は必然だった。
サンライズの前身・創映社は東北新社の子会社だった。

創映社は『ゼロテスター』(1973/10/1〜1974/12/30)や

『勇者ライディーン』(1975/4/4〜1976/3/26)などを成功させたが、

これらの作品の利益はほとんど親会社の東北新社に持って行かれ、
創映社内では不満がたまっていた。
創映社の立ち上げに関与した沼本清海(ぬもと きよみ)は、
玩具メーカーのタカラ(現・タカラトミー)に転職、

独立を望む創映社に、
沼本はそれまで『やわらかベビー』等の女児向き玩具を販売していた玩具メーカーのクローバーを紹介。
クローバーは自社の知名度向上やキャラクター商品を充実させたい意向で、両者の利害は一致した。
かくして創映社は東北新社から独立し、日本サンライズとなる。
というわけで、
クローバーがサンライズ作品第1号

「無敵超人ザンボット3」(1977/10/8〜1978/3/25)のスポンサーになったのは、
背後にタカラの采配があった。
それまで女児玩具しか作ってこなかったクローバーに、
ロボット玩具のノウハウはないので、
これもタカラが請け負った。

情報を総合すれば、ザンボット3の関連玩具は、タカラの三郷工場で製造されたのは明白。
そんなまわりくどいことをするより、
タカラがスポンサーになればよかったのに。
しかし創映社が名前を変えてサンライズとして独立したのは、
東北新社にとっては造反だったから、
あまりにもあからさまな対抗路線は打ち出しにくい。
なにしろ、
「ゼロテスター」「ライディーン」と玩具(ポピーブランド)模型で、
バンダイとの連携はきわめてスムーズ。
その延長で、
東映テレビ事業部が企画、
制作を創映社に委託するという手法をとった、
「超電磁ロボ コン・バトラー

が「ライディーン」に続き、
東映テレビ事業部が企画、
製作を日本サンライズに委託していた、
「超電磁マシーン ボルテス

の後半が「ザンボット3」に重なり、
「ボルテスV」と同じ体制で製作された「闘将ダイモス」(1978/4/1〜1979/1/27)は


「無敵鋼人ダイターン3」(1978/6/3〜1979/3/31)と放送時期が重なっている。

↓ダイターン3の玩具も、タカラの三郷工場で製造されたに決まってる。

というわけで、創映社時代からの作品の流れが、
東映動画作品の、
「マジンガーZ」(1972/12/3〜1974/9/1)
「スタージンガー」(1978/4/2〜1979/6/24)に頃には
後釜に「ダルタニアス」(1979/3/21〜1980/3/5)が収まるまでに成長していた。
こうした状況下で、
キャラクター玩具をバンダイ(ポピー)と二分していたタカラから、
サンライズ作品の製品を発売するのはいかにも挑発行為。
さらに加えて、
東映動画の巨大ロボ路線の人気が下降気味だった、
「鋼鉄ジーグ」(1975/10/5〜1976/8/29)

「マグネロボ ガ・キーン」(1976/9/5〜1977/6/26)

の玩具はタカラから発売され、
なんとなくポピーの受け皿、
つまりバンダイグループが見限ったおこぼれ、
落ち目の二軍作品ばかりを引き受けている感じがつきまとっていた。
「ジーグ」「ガ・キーン」の流れを断ち、
新会社(サンライズ)の新番組(ザンボット)には、
新スポンサー(クローバー)がふさわしかった。
(転載終わり)
- 沼本清海の名を知る者はかなりの事情通
- 虫プロ公募第一期生として「鉄腕アトム」放送前の虫プロ入社
- 動画課長として幾多の作品の現場を支え、アニメーター採用担当で安彦良和の才能を見抜く
- サンライズ前身の創映社の設立メンバーで「ゼロテスター」の企画を立ち上げ、「宇宙戦艦ヤマト」より先にスタジオぬえのメンバーを起用
- その後は玩具メーカーのタカラに転身、球体関節ロボの「鋼鉄ジーグ」「マグネロボ ガ・キーン」を企画
- タカラ在籍中に玩具メーカーのクローバーをサンライズに紹介し、サンライズ・オリジナル路線「ザンボット3」「ダイターン3」「機動戦士ガンダム」制作の道筋を作り上げた功労者
- 「ガンダム」のネーミングも沼本氏による
- その後もタカラで「ダグラム」「ボトムズ」等のリアルロボット路線を成功に導いた名プランナー
- 「ガンダム」命名者の沼本氏は当初「ガンボーイ」の企画書名をタイトルと内容の両面でチェックして修正案を提示
- タイトル「ガンボーイ」は上から目線のマウント志向。よくできたキャラクター、英雄崇拝は下から見上げた形こそ理想的
- 巨大なダムを下から見上げるイメージと、チャールズ・ブロンソンの「マンダム」CMの要素を加味した
- 「ガンボーイ」よりも「ガンダム」の方がより広い世界観が感じられると好評
- 改善案持ち帰りの2週間か1ヶ月後の会議でサンライズ、広告代理店(創通エージェンシー)、タカラ工業から20案ほど提案され、沼本案が採択された
- タイトル会議の立会人はサンライズ側から飯塚正夫氏と山浦栄二氏が出席。おそらく富野氏は不在だった
- クローバー倒産(※1983)でガンプラの権利はバンダイに移行(※1980年販売開始)。タカラ在籍の沼本氏が影のアドバイザーとして携わりながら、同社が模型の権利を取得しなかった経緯は以下のとおり
- その時点では「ガンダム」は失敗作の一般・業界評価とハイターゲットの高評価が乖離しており、その情報はサンライズとクローバーから沼本氏にも逐一入ってきていたのでタカラでやるべきだと主張はしていたが、ある事情からその案は立ち消えに。
- 立ち消えの真相は、タカラはクローバーが潰れた時の筆頭債権者だったため、もし「ガンダム」をやればタカラがクローバーのガンダム商品化権をもぎ取って意図的に潰したのではと勘繰られかねないので、やむなくタカラは手を引きバンダイが権利を引き継いだ。
後年の書籍で「ガンダムブーム」の恩恵に与れなかったように言われ、倒産の原因は「ガンダムブームに乗れなかったため」とされる事も多い。しかし実際には、『ガンダム』の放送期間である1979年度の間に、売上および利益がほぼ倍増している。またブーム時にはガンダムのパネロックを5000万個販売するなど好調で、1981年には過去最高の年商を達成しており、むしろブームの退潮と、それを打開するために参加した『聖戦士ダンバイン』、『亜空大作戦スラングル』の玩具売り上げが振るわなかった事が原因のようである。
「スーパーロボット路線」に回帰した(ガンダム)後番組の『無敵ロボ トライダーG7』では玩具の売り上げが好調で、その後番組の『最強ロボ ダイオージャ』も、『トライダーG7』と同様の路線となった。
そして、「ガンプラブーム」の再来を狙ってリアル・ロボット路線となった『戦闘メカ ザブングル』以降、“名古屋テレビ&日本サンライズのロボットアニメ枠”にはバンダイもスポンサーとして加わった。クローバー社の玩具と共に同社のプラモデルも発売され、同枠の主力商品は次第にそちらへとシフトした。かつては学童がメインだった購買層の動向も変化し、変形合体を中心とした出来合いの玩具の人気は低迷した。クローバーの業績は伸び悩み、結果、『聖戦士ダンバイン』の放送中に倒産した。
そのため、ダンバインの後継メカである「ビルバイン」の玩具は、金型を引き継いで急遽スポンサーとなったトミー(現:タカラトミー)から発売された。
他にも沼本清海氏と高橋良輔氏の対談ネット記事(【第04回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」)がこちらにあり、「ガンダムの命名者は沼本清海氏」というのは、10年ほど前から知る人ぞ知る情報だったらしい。
- 「鉄腕アトム」(1963)では動画・原画・演出まで担当するも目のケガで現場を退(しりぞ)き作画課長に
- 虫プロ社内にアニメーター養成所を作り、まだ新人時代の安彦良和と出会う
- 虫プロが経営難に陥りかけた時、「サンダーバード」の日本放送に貢献した東北新社の植村伴次郎社長が資金を出して作った会社が創映社
- 植村は特撮物の「サンダーバード」がSF仕立てだったことから、それに続くようなSFアニメ作品を作って欲しいと沼本に持ちかけた
- 沼本は虫プロ時代に美術学校や美大の生徒たちをアルバイトに起用していたので、その中からSFに詳しい学生たちを集め、居合わせた宮武一貴たちが後にスタジオぬえを結成。彼らの力を借りて創映社の第2弾作品となったのが高橋良輔初監督作品の「ゼロテスター」(1973)
- 沼本は「ゼロテスター」の企画をまとめてすぐに番組放映ほどなく創映社を1年半ほどで退社し、玩具会社のタカラに移籍した
- タカラでは「鋼鉄ジーグ」の玩具企画を受け持ち、井上研究所が特許を所有する、マグネットで手足がくっつくアイデアが玩具に応用されずじまいだったので、相談を持ちかけたスタジオぬえ経由で「マジンガーZ」の永井豪氏にストーリーを考案してもらい東映動画でアニメ化された。当時は玩具メーカーに資金的余裕があり、主導権を持ってアニメ番組を企画する時代になっていた
- 沼本氏は「ミクロマン」(1974)開発に関わった後、タカラの子会社であるタカラ工業(三郷のタカラ工場)に移り、同じ頃クローバーからテレビシリーズをやりたいと相談を受ける。クローバーが出資してロボットの合金玩具を生産するので、アニメ番組を作って欲しいという要望
- そこで虫プロ出身の富野善幸(当時表記・由悠季)、安彦良和を招き、「ザンボット3」に始まるクローバー路線を立ち上げた
- 3本目の「ガンダム」ではタツノコプロ出身の大河原邦男氏をメカデザイナーに起用した。同氏はアニメ業界に入る前に紳士服のデザインをしていたせいか、全体に角ばった線で、ロボットを真正面から描く癖があった
- ギャグ物はそれでいいが、リアル物は真正面ではなく、7:3のバランスでカッコよく描いてもらいたい。ガンダムは安彦がクリンナップして、大河原氏は安彦のラインを自分のものにして行った
- 大河原さんが独自に描いたザクなどのモビルスーツが「ダグラム」「ボトムズ」へと繋がる