『ジョーカー』再考
これ(『ジョーカー』IMAX)の後追い記事。
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まずはいただいたコメントから。
チャッP
そういやバートン監督の
『バットマン』(1989)からもう30年経つんですね・・・。
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当時全米で『E.T.』(1982)や
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当時全米で『E.T.』(1982)や
『スター・ウォーズ』(1977)に迫るほどの興行収入を記録したのに、
日本では『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』(1989)に負けていたとか(愕)。
IMAXで再見したい傑作です(なんてネ)。
チャッPさんは、
映画単体でなく、
配給会社や公開劇場、
同時期公開作、興行収入など、
色々からめてお詳しく、またよく覚えていらっしゃいますよね。
私のあいまいな記憶も、時たま直してもらえて何よりです。
『バットマン』公開直前の1989年冬、
当時の勤務地、
南浦和のプラットフォームから線路際をながめると、
巨大なバットマークと公開日の日付だけのビルボードが目を惹きましたね。
※記憶を頼りにでっち上げた画像で、本物ではありません。
当時の浦和にはまともな映画館がなく、
この看板を見て、「行こう!」と決めた人はどこに行くのかと漠然と考えた。
(南浦和にこの広告で、効果が期待できるのか、ということ)
結局、興業は(予想どおりの)期待はずれに終わり、
当時はティム・バートンってメジャー指向の監督ではなく、
変わり者の鬼才あつかいされていた。
だがこの頃のジョージ・ルーカスに、
「注目している若手監督は?」
と尋ねると、
「ティム・バートン!」と即答していた。
バートン信者は多く、
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)は、
ヘンリー・セリック(『ジャイアント・ピーチ』『コララインとボタンの魔女』)
が監督なのに、
誰もが(原案/製作の)バートン作品だと思っているし、
ルーカスが『エピソード2 クローンの攻撃』(2002)で叩かれても、
前年のバートン作『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001)
が散々な出来だったのに、
バートンはなぜか糾弾されなかった。
『ダークナイト』(2008)の公開時にも、
ゴッサム・シティの景観が、
ロケで実際の都市景観になってしまいガッカリ。
ティム・バートン監督作『バットマン』(1989)
同『バットマン リターンズ』(1992)の方に軍配を上げる。
——と言う意見があり、
『ダークナイト』という映画を観て、
まだそんな陳腐なバートン派宣言にこだわるか、
とガクゼンとしたが、
『ジョーカー』を観てもなお、
『ダークナイト』の
ヒース・レジャー版のジョーカー2008には及ばない
とか言ってる意見を見ると、
まだそんな陳腐なクリストファー・ノーラン派宣言にこだわるか、
と、まったく同じ感想が蘇ってくる。
物事を正しく判断できなくなる、
カルト(狂信・妄信)の恐ろしさ。
今回、『ジョーカー』の一般ネット評で、
その方向で話を進めても何にもならない
と感じたのは2つある。
1つは前も話した
ジョーカー2019が悪に堕ちる過程に納得できず、自分はそうはならない
——という善良市民安全宣言だが、
それに何の意味があるのか。
もっとも『ダークナイト』の時に、
ブルース・ウェイン
バットマン/ダークナイト(クリスチャン・ベール)よりも
ジョーカー2008の方を支持する声には眉をひそめた自分なのに、
『ジョーカー』のホアキン・フェニックス版2019
役名アーサー・フレックには共感できる。
10年余の時の経過で、
自ら人生の辛酸をなめたからか。
それでもいまだに、
『ダークナイト』版ジョーカー2008に共感はできないから、
映画『ジョーカー』は、
主役を見て、
身につまされるような作りになっているわけで、
悪だからと頑なに拒絶するのは、
この作品の見方が間違っているのではないか。
『ジョーカー』の一般ネット評で、
その方向で話を進めても何にもならない
と感じた2つ目=映画の見方が間違っているのは、
虚実が織り交ぜられて語られ、
どこまでが現実=真実=事実かわからないからと、
「全てがジョークだ」
と描かれた全てを否定してしまったり、
あるいは逆に、
この作品がジョーカー2019の誕生を描いているからと、
妄想部分を大切に扱いすぎて、
常日頃からウソばかりついている、
『ダークナイト』版ヒース・レジャーの
サイコパスジョーカー2008に結びつけてしまうもの。
観客が信じて観ていた中身が裏切られるのは、
映画に欺かれるわけで、
あまり感心しない。
映画『ジョーカー』では、
本筋は断片的でなくドラマが連なっている反面、
妄想部分は断片的で突発的、
割合は現実8〜9割、妄想1〜2割と言った感じか。
観客に誤解を与えかねないのに、
『ジョーカー』で、あえてそういう手法が使われているのは、
- 初めて犯罪に手を染めた時、罪悪感よりも達成感や解放感に満たされ、勝利の舞を踊った後、憧れていた女性をものにする幻想に浸る。
- 抑圧された現実が存在しても、社会的弱者の立場からの正当な主張はかき消され、富裕層や権力者に都合のよい解釈がまかり取ってしまう。
- ジョーカーの乱=暴動が起きないと、ウェイン夫妻は暴漢に襲われて、『バットマン』(1989)とほぼ同じ運命をたどらないし、この犯行にアーサー・フレックは関与していない。(ジャック・ニコルソン演じたジャック・ネイピア=ジョーカー1989とホアキン版アーサー・フレックのジョーカー2019は別人)
- あるいはこの部分は岡田斗司夫氏(後述)分析によればアーサーの幻想で、彼は自ら手を下さずに実父に復讐を果たし、母違いの弟ブルース・ウェインがバットマンに変貌するきっかけを作った。
- アーサー・フレックは収監・拘束されても、精神まではとらわれず、むしろ解放感に満たされている。
——と捉えるべきで、
『ダークナイト』のヒース・レジャー版ジョーカー2008につなげて解釈するべきではない。
〈ジョーカーの乱〉で想起された映画は、
『猿の惑星/征服』(1972)で、
迫害と虐待を受け続けたシーザー(ロディ・マクドウォール/マクダワル)が、
反乱蜂起の主導役なところも、
『ジョーカー』の筋立てと通じていて、鑑賞中に「ああ、なるほど」と思い至った。
では、次のコメント。
新たな傑作。
無題
「それが(虚構ではなく)事実だから」まさにその通りだと思います。ジョーカーは我々でウェインはあいつらですね。
日本でこれだけ興行収入をあげているのだったら、次の投票機会に何とかならないものなのかなと。
この映画を大メジャーで製作し、公開するアメリカの懐の深さに驚愕し、美しい国日本の暗澹たる現状に愕然とします。
日本でこれだけ興行収入をあげているのだったら、次の投票機会に何とかならないものなのかなと。
この映画を大メジャーで製作し、公開するアメリカの懐の深さに驚愕し、美しい国日本の暗澹たる現状に愕然とします。
これと関連して、
ようやく作品本編を観たので、
著名人の評も拾い聴きした。
——等の定番を見渡し、どれもそれなりに感心したが、
やっぱり、マクガイヤーチャンネルがとどめを刺したね。
- アメコミ映画でないと、ふんだんな予算が割かれない
- 現実問題を扱っていても、フィクションを建前にしらばっくれられる
——等の鋭い指摘は、マクガイヤー氏なればこそ。
まとめると、『ジョーカー』は映画自体も当然、
評ずるもの、論ずるものの力量も試される映画でしたね。