まずは恒例、
前記事(『ガンダム誕生秘話』をふり返る【中篇】)からのコメント転載。
Doburokutao
永年の謎の一つ
番組を視聴して感じた事は 自分の仕事が絶対とは思っておらず 顔色をうかがいながら作業を勧めていたことでしょうか…
ところで、 MSのデザインがまとまっていく中で、
ところで、 MSのデザインがまとまっていく中で、
「ガンキャノン」に関しては
高千穂遥氏が ハインラインの小説「宇宙の戦士」(早川文庫)のパワードスーツのデザイン(デザイン 宮武一貴 イラスト 加藤直之)を持ち込んだという記述がありますが…
長年の謎の一つは その件以外で高千穂遥氏の名前を見なかった事なんですね。
ガンダム放映直後の「SFマガジン」で番組紹介をしてますが、今思えば製作情報に関わってなければなんで新番組紹介を書けたか…とか。
ガンダム放映直後の「SFマガジン」で番組紹介をしてますが、今思えば製作情報に関わってなければなんで新番組紹介を書けたか…とか。
ガンダム20周年のころアスキー?の雑誌「G-20」にガンダムのコロニーに関する短編小説を発表したかも含めて(当時なんで書いたんだろ…でした)。
スターログ創刊時(1978年?)を思い返すと、自分のようなアニメファンでも、海外イラストレイターの作品情報を豊富に持っていた人物として頭に浮かぶのは野田昌弘氏(大元帥)なんです。
スターログ創刊時(1978年?)を思い返すと、自分のようなアニメファンでも、海外イラストレイターの作品情報を豊富に持っていた人物として頭に浮かぶのは野田昌弘氏(大元帥)なんです。
で、野田氏は、製作したTV番組「ひらけポンキッキ」で起用することで「スタジオぬえ」(まだ別会社名)を支援した事は有名な話です。
なので、大河原氏に参考にするように資料を与えたのは 高千穂遥氏(スタジオぬえ)で、その情報源は野田昌弘氏ではないかと…。
ここから 少し飛躍した想像が浮かびます。
なので、大河原氏に参考にするように資料を与えたのは 高千穂遥氏(スタジオぬえ)で、その情報源は野田昌弘氏ではないかと…。
ここから 少し飛躍した想像が浮かびます。
Doburokutao
ガンダム創生に関わる飛躍した想像
野田昌弘氏といえば TV番組制作会社「日本テレワーク」の社長であった事は有名ですが、日本テレワークが会社として独立したのが1976年という事を思えば、野田氏はオリジナルのSFTV番組を自社で制作したかったのでは…と思う訳です。(「銀河乞食軍団」のCDのリーフレット見ていると野田氏の関わった「宇宙からのメッセージ」との世界関連など伺われて想像が膨らみますが… )
そしてタカラのミクロマンや
![さいたい]()
そしてタカラのミクロマンや

スタジオぬえがデザインしたタカラのタワー基地M-115は、ミクロマンの第1シリーズ中最大の製品で1974年の発売。
ダイアクロンにスタジオぬえが関わっていた事を思うと…
番組企画 日本テレワーク
番組メカデザイン・設定 スタジオぬえ
スポンサー タカラ
ときて 実際にアニメを制作するのは…で選ばれたのが日本サンライズだった。
そしてある程度企画がすすんだ段階で スポンサーがいろんな事情で撤退し(併せて企画の中心だったスタジオぬえ側も離れる)、中途半端に製作が進行した作品が生まれてしまった。
そりゃ下手したら会社(サンライズ)はつぶれかねないので、必死にスポンサーを見つけて 作品をTVに流し投資を取り戻そうとした。そして誕生したのが…
まぁ、所詮は想像(妄想)ですので
でもこんな物語があったら「君は生き残ることができるか…」というコピーも生きてきますよね。
番組メカデザイン・設定 スタジオぬえ
スポンサー タカラ
ときて 実際にアニメを制作するのは…で選ばれたのが日本サンライズだった。
そしてある程度企画がすすんだ段階で スポンサーがいろんな事情で撤退し(併せて企画の中心だったスタジオぬえ側も離れる)、中途半端に製作が進行した作品が生まれてしまった。
そりゃ下手したら会社(サンライズ)はつぶれかねないので、必死にスポンサーを見つけて 作品をTVに流し投資を取り戻そうとした。そして誕生したのが…
まぁ、所詮は想像(妄想)ですので
でもこんな物語があったら「君は生き残ることができるか…」というコピーも生きてきますよね。
Doburokutao
「スタジオぬえ」と「サンライズ」で思いだしたこと…
——と、怒濤のコメントをいただき、
なるほどいつもながら示唆と含蓄に富むものの、
ていねいに拾いすぎると話が先に進まないので、
今回は転載のみにとどめます。
一応、レスしておくと、
スタジオぬえと同氏の関係は知りませんでした。
でもって、
前回のクイズは、
なぜ完全自作オリジナルで仕事をこなしてきたメカデザイナーの
大河原邦男氏が、
ガンダムや
ザクのデザインで、
他人の絵柄から印象を拝借したりしたのか、
という問いかけでした。
「ガンダム誕生秘話」番組内に答はなく、
↓この映像にありました。
「ガンダム」には企画時から松崎健一などのスタジオぬえが関与しながら、
安彦良和は「本作のメカデザインはスタジオぬえ以外で」と要望を出した。
当時のアニメ業界でメカデザイン業は、
スタジオぬえ(ジョン・デドワ/CAS=クリスタル・アート・スタジオ)以外には、
タツノコ出身の中村光毅氏と
↓アオシマのマッハ号1/24、
↑ハセガワのテスタロッサ1/24
↓ブガッティのスピードレコードプロジェクトと
↑ポリマーマシンの比較。
↓アンガス・マッキー画。ハーラン・エリスンのアンソロジー、『危険なヴィジョン、再び』(Again, Dangerous Visions/未邦訳)の第1集を1978年に再刊した際の表紙。
「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」(1979)/『ヤマトよ永遠に』(1980)に登場するプレアデス。
大河原邦男氏が1976年に設立したての会社、
メカマンしかなかった。
↑「科学忍者隊ガッチャマン」(1972〜1974)
「ガンダム」でもそちらを受け持つため、
モビルスーツのデザインは、
大河原邦男氏に回って来た。
では安彦氏はどうして、
スタジオぬえのデザインを敬遠したのか?
安彦氏は「ぬえのメカは描きにくい」と言うが、
それ以外にも理由はあった。
一つには、「ガンダム」は対ヤマト/西崎/アカデミーだったので、
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見た目をヤマトと差別化したいのに、
同じスタジオぬえ(宮武一貴がメイン)がデザインしたら、
↓(上)スタジオぬえの加藤直之氏が描いた宇宙戦艦ヤマト
↑(中)プラモのボックスアートに使用された加藤直之氏のキャプテンハーロックのイラスト
(下)下絵になった、宮武一貴氏によるアルカディア号のデザイン画
区別がつきにくくなってしまうから、
だったと思う。
また、アニメが本業ではない集団スタジオぬえの発言権やその他諸々の権限を増しすぎると、「ガンダム」という作品や日本サンライズという会社を乗っ取られかねないので用心に越したことはない、という気持ちもあったのではないか。
いうなれば安彦氏のカンである。
『超時空要塞マクロス』で、
スタジオぬえとビッグウエストがタツノコと裁判を争った後日談からも、
そのカンは当たっていたようだ。
とにかく安彦氏からすると、
大河原デザインは描きやすく、
それは自分なりに描き替えても融通が利くからでもあった。
一方で富野カントクはと言えば、
大河原デザインは「タイムボカン」シリーズで知っていたからこそ、
大河原氏本人が無自覚ながら、
「ガンダム」でも使い回されると世界観がぶちこわしなため、
「持って生まれたギャグセンをぶち込んだ、ヤッターマンメカを持ち込まれるのはゴメン」
と釘を刺した。
これに身構えた大河原氏は、
自分のセンスではないものを取り込むべく、
不本意ながら他者の作品を見て回り、
メカの元ネタをメカに探るなどと言う、
↓SWエピソード1のクイーン専用船
↑SR-71ブラックバード
↑(左)50〜60年代のアメ車のボンネット上の飾り/(右)SWエピソード1のナブー戦闘機
↑B-2ステルス爆撃機と、SWエピソード2のロイヤルシップ
↓SWエピソード2のガンシップ
↑ロシアの攻撃ヘリ・ハウンド
後年のダグ・チャンのようなゴミデザインとは一線を画すので、
まさか突き止められるとは思わなかったんだろう。
少なくとも、安彦良和と富野義幸(当時表記)には大いに気に入られた。
しかしビームサーベルの位置は作画ミスではなく、
大河原案の刀の付け位置が、
背面の赤ラインではなく、
肩口のグリーンラインだったと捉えていたからではないのか。
(※DXソフビスーツガンダムを見ながら自分で描きました)
なにしろ、
安彦良和が40年前に本編作画でスラスラ描き上げたガンダムの形状把握がほぼ完璧で、
↑DXソフビスーツガンダムとの比較
現代までその立体再現が繰り返され続けてるんだから、
スゴイことである。
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以上で、
「ガンダム誕生秘話」をふり返る
は終了ですが、
富野義幸編を別記事にする予定です。